続いて、原爆の開発と広島に投下されるまでの経緯の資料の展示になります。
時計の後ろにある写真と文章は、ここに展示してある腕時計のものではありません。
1943年5月にアメリカが原爆投下の対象に日本を想定し、1944年の9月アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が日本への原爆投下に合意し、原爆の投下により戦争を終結できれば、1945年8月中旬に予定されていた、ソ連の対日参戦による戦後ソ連の影響力をの拡大を防ぎ、原爆開発計画を国内に向け正当化できるために日本への原爆投下に至ったという説明があり、それぞれに関する資料が展示されています。
1938年にドイツで原子の核分裂が発見されてからアメリカを中心とするマンハッタン計画(原爆製造計画)による原爆の開発、1945年の初の原爆実験について説明があります。
軍人と科学者で構成された軍事政策委員会で、1943年に原爆投下地点について議論され、日本艦隊が望ましいだろうという意見が大半をしめた理由は、原爆が爆発せずに回収された場合、爆弾から開発の知識を得る可能性がドイツよりも日本の方が低いだろうと見られたためだという内容が記載されています。
2013年5月17日(金)10時13分配信 共同通信
【ワシントン共同】米上院エネルギー天然資源委員会は16日、第2次大戦中に原爆を開発した「マンハッタン計画」の関連施設を国立歴史公園に指定する法案を賛成多数で可決した。同様の法案は下院の委員会でも既に可決しており、成立には両院の本会議での可決を残すのみとなった。法案は広島、長崎に投下された原爆の製造過程に深く関わった施設を「歴史資源の保存」を目的に国立公園に指定する内容。オバマ政権も賛同している。
1944年にセオドア・ルーズベルトとウィンストン・チャーチルが会談した時の合意文書にも、日本人に対して使用するかもしれないという文章があるそうです。
1945年6月6日のアメリカ陸軍長官の日記の抜粋の日本語訳には。
原爆の準備が整わないうちに、空軍が日本を徹底的に爆撃してしまい、その結果、新兵器の威力を確認できる都合のよい状況がなくなるのではないかと多少心配している。
と記載されていました。
ヤルタ会談でソ連が中立条約を破り対日参戦する時期が決まったこと、20億ドルの経費をかけたマンハッタン計画(原爆製造計画)が失敗に終われば厳しい調査と批判を受けなければならないことなどから、原爆により戦争終結につなげれば、アメリカは戦後の国際社会でソ連より優位に立つことができ、マンハッタン計画を国内に正当化できるため、原爆投下に向け準備を進めたという内容の展示があります。
ポツダム宣言について、当時の新聞です。
政府は黙殺という文字が見えます。
無条件降伏を求めるポツダム宣言には、原爆の存在を暗示する言葉もなく、日本がそれを受諾して降伏するために重要と考えられていた天皇制の存続の保証が記されていないものであったことと、日本は受諾しなかったという内容の説明があります。
余談ですが、ポツダム宣言は草案では「天皇制の維持」を保証する文章がありましたが、トールマン(ルーズベルトの急死によりトールマンが大統領になりました。)とバーンズにより削除されました。後ほど展示物でも出てきますが、スチムソン陸軍長官は再三、トルーマンに天皇制の存続保証する事が日本がポツダム宣言を受諾する為には重要だと進言していました。
トルーマン政権は「ソ連の対日戦争参戦」と「天皇制存続」を認めることが日本が降伏する為に重要な条件と考えていましたが、日本に対する原爆の使用は決して「降伏の条件」とは考えていなかったのです。
しかし、トルーマンは草案にあった天皇の地位保全に関する部分をわざわざ削除し、そしてトールマン政権が日本が降伏する条件と考えていた「ソ連の参戦」の予定前に原爆を投下しました。
このため、ポツダム宣言から「天皇制存続」を削除したのは、日本がポツダム宣言を受諾できないようにするためで、原爆投下前に日本に降伏させたくなかったためと考えられます。
次の展示を見ていくと、原爆投下は戦争の早期終結のために行われたわけではないということが感じられると思います。