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広島市内観光と縮景園

広島市内観光と言えば原爆ドームがクローズアップされがちですね。
けれども広島市内観光は二回目と言う方は別の訪れ方も楽しみたいもの。
広島市内観光の上級者にお勧めなのが、浅野藩主の館として作られた縮景園。syukukeien
落ち着いた雰囲気の日本庭園で、四季折々の花が楽しめるので季節を問わずおすすめできます。
250円の入場料を払い観光を行う事が出来ます。
梅や牡丹、山法師などその季節折々の美しい花を見る事が出来ます。
ご家族でゆっくりと楽しむ旅行の合間に訪れたりするとよいと思いますが、お花が大好きな女性とのデートスポットにもお勧めです。

尾道観光のおすすめコース

千光寺新道

瀬戸内海の美しい景色を眺めたかったら、尾道観光がお勧めです。

四季折々の豊かな風情を見せてくれる広島県ですが、 その中でも海と山と坂の街として、老若男女から愛されてきたのが尾道です。
尾道観光では、瀬戸内海の美しい景色に加え、昔ながらの忘れかけていた日本の原風景を、彼方こちらに見る事が出来ます。

平成27年に「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」として最初の日本遺産の一つにも認定され、映画やアニメなどの舞台としても使われる事の多い尾道ですが、
特別有名な観光地があるというわけではないので、初めて尾道観光をされる方は、どのスポットを訪れたら良いか分からないと言う方も多いでしょう。

このサイトでは、はじめて尾道を旅するかたにもお勧めのスポットの展望台・文学の小道・古寺巡り・商店街や、尾道でのお土産や宿泊、食事など、尾道観光のおすすめについて紹介していきます。

尾道へのアクセス

広島駅から尾道へは、
JR広島駅から新幹線こだま(約30分)→三原駅から岡山方面(乗車時間約12分)→尾道駅
JR広島駅から新幹線こだま(約40分)→新尾道駅から路線バス(約15分)→尾道駅
東京、大阪方面からの場合は
新幹線を福山駅下車⇒JR山陽本線三原・糸崎方面行きで尾道まで約20分

旧尾道市の概要

尾道観光

海を臨む観光地「坂の街」尾道

尾道市は広島県の南東部に位置する街。古くから海運の拠点として発展した、山と海に挟まれた街です。観光地としては、海を臨む「坂の街」として、あるいは本州と四国を結ぶ「しまなみ海道」で有名です。

尾道緑道
JR尾道駅前の緑道から東側をみた風景です。

左側が駅、右に見えるの海が尾道水道、その向こうの尾道市向島町はフェリーやレンタサイクルで行くことができる造船業が盛んな地区で、まわりは造船所やドックです。
正面には尾道大橋と新尾道大橋を望むことができます。

尾道駅前から東側の海岸通りにはウッドデッキが整備してあり、お店も多く海辺の散策にはもってこいです。
海岸通りからすぐに北側が商店街、そこから山に向かうと古寺や、文学の小道、志賀直哉旧居、展望台のある千光寺公園があります。

尾道観光の魅力

尾道は何といっても街の雰囲気が素敵ですから、ぶらりと歩いて巡るだけでもとてもよいところで、尾道ラーメンを食べて、何となく坂道をのぼり、ふと振り返れば、瀬戸内海の美しい景色を見られる魅惑あふれるところです。

しかし、尾道観光の魅力はそれだけに尽きません。
志賀直哉や林芙美子といった文人たちにも愛されたこの街には、今なお穏やかでノスタルジックな風景が残され、それと同時に新しい感性が盛り込まれたスポットが生まれています。

志賀直哉旧居近くの千光寺新道
向島と船舶ドッグが見渡せる尾道水道、それに沿って続く海岸通にはオシャレでおいしいレストランがたくさん。
海岸通りから少し中に入れば昔懐かしい雰囲気の商店街。街の歴史を感じられる建物と、つい覗きたくなるような個性的なお店が入り交じる場所です。

商店街から線路を越えて山側に向かえば、いかにも尾道らしい坂道。尾道の街を一望できます。様々なゆかりのある寺社と、まるで隠れ家のような小さなお店があり、こちらも見逃せません。尾道観光ではよく猫に出合います

さらに、「空き家再生プロジェクト」という若者たちの手によるムーブメントにも注目。使われなくなった古民家が、アーティスティックなスポットとして生まれ変わっています。

お天気が良ければ、少し足を伸ばしてしまなみ海道へ。本州と四国(愛媛県今治市)を島伝いに繋ぐ、全長約60キロの道路です。車での通行はもちろん徒歩や自転車での通行も可能なしまなみ海道では、毎年様々なイベントが開催され、各地から数多くの人が集まるスポットになっています。

持光寺、千光寺、天寧寺などの古寺めぐりコース(七佛めぐり)で、お寺周辺を散策するもよし、大林宣彦監督の尾道を舞台にした映画(転校生」小林聡美、「時をかける少女」の原田知世、「さびしんぼう」の富田靖子、「ふたり」の石田ひかり、「あした」の高橋かおり)のロケ地めぐりをするもよし。

瀬戸の島々の美しい風景を堪能するもよし、自転車に乗って瀬戸内の風を肌で感じてみるのもよし。日常を離れ、少しだけアクティブになってみませんか。
小さな街にたくさんの魅力が詰まった尾道、それでは実際の尾道観光情報ついてみて行きましょう。

尾道散策の心得へ

お好み焼きを食べるなら

広島でお好み焼きのお店名入り、作っている様子などを見ていると、広島に来た!って感じがして良いです。
八昌、みっちゃんなどの有名店もありますが人気店は非常に混み、ものすごい行列ができます。
終了一時間前くらいに行くと、「今日は終わりです。」といわれ行列に並ぶことすらできないこともあります。

でも、お好み焼きのお店は沢山ありますから、せっかくの旅行の時間を無駄にしないほうが良いと思いますので、無理に行列のできるお店に並ぶ必要はないと思います。
広島駅の駅ビルASSEにも沢山のお好み焼きのお店が並んでいます。

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こちらはASSEの中では1番人気のお店で、非常に手際も良く、回転も速いのですが行列が出来ています。

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でもその隣には何件もお好み焼きのお店が並んでいます。
旅行の時間は大切です、並ばずに入れる場合が多いのでそちらに入っても良いと思います。

その他広島駅周辺では、南口を出て郵便局の向かいにあるヒロシマフルフォーカスの5階もお好み焼きのお店がまとまっていますし、お好み焼きのお店はたくさんありますので困ることはないでしょう。

リバークルーズと商店街の散策

広島に住んでいるとあまり利用はしませんが、観光で訪れた方には、水の上から市内を見渡せるリバークルーズも人気。
原爆ドームから平和公園に向かう途中の元安橋の下に乗り場があり、お弁当等の持ち込みも可能です。

所要時間は30分ほど、デイクルーズで有れば大人は1000円で乗車する事が出来ます。

アクアネット広島と言う会社が運営していまてデイクルーズ、ムードが高まるサンセットクルーズなどが有りますが、運行情報等は、ホームページからチェックしておく必要があります。

観光に疲れたら近くの商店街を散策するのも一手。
愛友市場は地元の方からも愛されている市場です。

焼き芋フェアやクリスマスフェア、秋祭りなどイベントも目白押し。
新鮮な野菜や魚介類などを格安な値段で購入する事が出来ます。
市場の中に有る友元神社は英雄毛利元就の義理の弟を祭った由緒正しき神社。

幸せの神として地元の方や観光客から愛されています。

広島アンデルセン

もう牡蠣もお好み焼きも食べました。
と言う方が広島市内で食事をするなら広島アンデルセンがおすすめです。

※被爆建築物でしたので、老朽化による耐震性の問題から、
平成29年7月現在、建て直しをしているところです。しばらくは仮店舗で
1F ベーカリー(パン、サンドイッチ、デリ、ワイン、スイーツ、フラワーなど)
2F カフェとなるそうです。

1Fはベーカリーマーケットで、
2Fのアンデルセンキッチンで食事ができます。
グリル&シチュー、チャイニーズ、ピッチャ&パスタ、サンドイッチ&サラダ、オードブル&デザートの5つのステーションがあり、約80種のお料理があります。
料理の他にスイーツとワイン&ビールのステーションもあり、子供から大人まで楽しめるでしょう。
1F ベーカリーマーケットフロア 10:00~20:00 (朝食7:30~)
2F アンデルセンキッチン 11:00~21:30 (オーダーストップ21:00)
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ビュッフェとして利用する場合を除き、注文と支払いは各ステーションでするのですが、エスカレーターを昇ると料理の写真があり、どんな料理があるのかがわかります。

夜(平日は17時から、土日祝日は18時から)はビュッフェスタイル(大人3800円)でも使えます。イベントのある時は料金の変更もあるようですので広島アンデルセンホームページで確認しておきましょう。
〒730-0035 広島市中区本通7-1
電話(082)247-2403(代)
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こちらはオードブルのステーションで、オードブル2種類を選びスープに、お代わり自由のパンがついて900円くらいのセットでした。

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中はとても広いので席が空いていなくて長時間待たされると言うことはあまりないでしょう。

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オードブルのステーション

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写りが悪いですがピザとパスタのステーション

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グリル&シチューのステーション

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サラダとサンドイッチのステーション

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中華のステーション

 

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デザート&ドリンクのステーション、奥にワインとビールのステーションがあります。

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1階はパン、チーズ、ワインなどを売っています。

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中通り
人通りがとても多い、中通にあるので迷うことはないでしょう。

平和記念資料館(4)

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原爆投下から約二ヶ月後の1945年10月5日広島の様子が大きなパネルで展示されています。

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原爆投下直後の広島市内の様子です。

爆心地中心の地表の温度は3千度から4千度になり、衝撃波と爆風により建物は崩壊したため、2キロ圏内の建物は全壊・全焼したと書いてあります。

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こちらが原爆投下前の市内の様子です。

 

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上が、被爆前の、下が被爆直後の現在の平和記念公園になっている地域周辺の様子です。

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こちらは原爆投下当日の写真です。

この写真に写っている方が、後にこれは私ですと名乗り出て、被爆者に対する偏見により色々と辛い目にあったと言うニュースを見た記憶があります。

 

平和記念資料館ー3

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ここまで見てくれば、原爆の開発に大金をつぎ込んだことを批判されないためにも、空襲による被害のない地域に、無警告で原爆を投下し、その効果を測定し、原爆の投下のおかげで終戦になったと言うために、原爆を落とす前に終戦にさせたくなかったのではないか、ということが言われている理由が読み取れると思います。

ここではスチムソン陸軍長官のことが展示されていますが、他にも原爆を投下せずに日本を原子爆弾を使うことなく降伏させるべきと進言がなされていたようで、日本を降伏させるのに原爆投下は不要であったという意見はあったようです。

以下は抜粋です。

米国では「原爆投下が終戦をもたらし、原爆犠牲者の数の10倍の日本人の生命も救った」という主張が主流になっているますが、日本の歴史に詳しかったグルー元駐日大使やライシャワー教授、民俗学者ベネディクト女史の進言に従って米国が対応していたら国際法違反の原爆使用は不要だったはず。

と私の意見を率直に述べ、これに米国の留学生も歴史観は百人百様と冷静に受け止め、「当時の民主党政権に判断ミスがあった」という者もいて、友好的雰囲気は卒業後も続きました。

参照自衛隊父兄会便り

グルーは陸軍長官ヘンリー・スティムソンと海軍長官ジェームズ・フォレスタルの2人とともに「三人委員会」のメンバーであった。「三人委員会」は、日本を原子爆弾を使うことなく降伏させようと建議し、それを受けて陸軍次官補ジョン・マクロイ(英語版)は日本への降伏文書を立案し、ポツダム宣言の第12条に盛り込まれることとなった。ところが、それは日本政府の「天皇制のもとでの間接統治」を許容する可能性を広く残していたため、トルーマン大統領はポツダム会談へ向かう船旅の間、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官の影響を受け、宣言内容の変更を余儀なくされた。

グルーは天皇が日本人にどれほど重要か理解していたため、原子爆弾を使うことなく日本の降伏に貢献できたと考えており、ドイツが降伏した1945年5月末から、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言していたが、結果としては広島・長崎への原爆投下を避けることができなかった。「降伏が1945年5月、またはソ連の参戦や原子爆弾使用前の6月か7月に行われたら、世界を救うことができたのだが」と述懐している。

参照ジョセフ・グルー – Wikipedia

日本大使を務めたことのあるアメリカの親日家故ライシャワー氏は「広島に落とされた一発目の原爆は必要であったとの議論も成り立つが、長崎に投下された二発目の原爆は絶対に正当化されない」と言っています。

広島原爆はウラン爆弾であったのに対し、長崎原爆はプルトニウム爆弾でした。しかも、構造も違っていました。二発目の原爆が投下された理由として、広島と長崎の原爆の種類が違うので、両方の効果を知りたいためだったとの考えがあります。

参照長崎大学原爆後障害医療研究施設

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ここからは、なぜ広島に原爆が落とされるようになったのかについての資料の展示があります。

下の2つの画像のパネルには、原爆投下の目標は戦略的に価値を持つことと、研究対象として適した地域で、効果を見るために目標地域は破壊されている地域を除外されたことなどが記されています。

クリックすると拡大表示されるので、文字が読めると思います。

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原爆の効果を測定する為に、米軍では原爆投下の目標となっている都市への空襲を禁止したと書かれています。

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抜粋の訳文の部分には”爆弾は、日本に対して出来るだけ早く、労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無しで使用されるべきだというのが現在の委員会の見解である”と記載されています。

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平和記念公資料館ー2

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続いて、原爆の開発と広島に投下されるまでの経緯の資料の展示になります。

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広島に原爆が投下された8時15分に壊れた時計です。

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時計の後ろにある写真と文章は、ここに展示してある腕時計のものではありません。

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1943年5月にアメリカが原爆投下の対象に日本を想定し、1944年の9月アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が日本への原爆投下に合意し、原爆の投下により戦争を終結できれば、1945年8月中旬に予定されていた、ソ連の対日参戦による戦後ソ連の影響力をの拡大を防ぎ、原爆開発計画を国内に向け正当化できるために日本への原爆投下に至ったという説明があり、それぞれに関する資料が展示されています。
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1938年にドイツで原子の核分裂が発見されてからアメリカを中心とするマンハッタン計画(原爆製造計画)による原爆の開発、1945年の初の原爆実験について説明があります。
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軍人と科学者で構成された軍事政策委員会で、1943年に原爆投下地点について議論され、日本艦隊が望ましいだろうという意見が大半をしめた理由は、原爆が爆発せずに回収された場合、爆弾から開発の知識を得る可能性がドイツよりも日本の方が低いだろうと見られたためだという内容が記載されています。

2013年5月17日(金)10時13分配信 共同通信
 【ワシントン共同】米上院エネルギー天然資源委員会は16日、第2次大戦中に原爆を開発した「マンハッタン計画」の関連施設を国立歴史公園に指定する法案を賛成多数で可決した。同様の法案は下院の委員会でも既に可決しており、成立には両院の本会議での可決を残すのみとなった。法案は広島、長崎に投下された原爆の製造過程に深く関わった施設を「歴史資源の保存」を目的に国立公園に指定する内容。オバマ政権も賛同している。

1944年にセオドア・ルーズベルトとウィンストン・チャーチルが会談した時の合意文書にも、日本人に対して使用するかもしれないという文章があるそうです。

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1945年6月6日のアメリカ陸軍長官の日記の抜粋の日本語訳には。
原爆の準備が整わないうちに、空軍が日本を徹底的に爆撃してしまい、その結果、新兵器の威力を確認できる都合のよい状況がなくなるのではないかと多少心配している。
と記載されていました。

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ヤルタ会談でソ連が中立条約を破り対日参戦する時期が決まったこと、20億ドルの経費をかけたマンハッタン計画(原爆製造計画)が失敗に終われば厳しい調査と批判を受けなければならないことなどから、原爆により戦争終結につなげれば、アメリカは戦後の国際社会でソ連より優位に立つことができ、マンハッタン計画を国内に正当化できるため、原爆投下に向け準備を進めたという内容の展示があります。

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ポツダム宣言について、当時の新聞です。
政府は黙殺という文字が見えます。

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無条件降伏を求めるポツダム宣言には、原爆の存在を暗示する言葉もなく、日本がそれを受諾して降伏するために重要と考えられていた天皇制の存続の保証が記されていないものであったことと、日本は受諾しなかったという内容の説明があります。

余談ですが、ポツダム宣言は草案では「天皇制の維持」を保証する文章がありましたが、トールマン(ルーズベルトの急死によりトールマンが大統領になりました。)とバーンズにより削除されました。後ほど展示物でも出てきますが、スチムソン陸軍長官は再三、トルーマンに天皇制の存続保証する事が日本がポツダム宣言を受諾する為には重要だと進言していました。
トルーマン政権は「ソ連の対日戦争参戦」と「天皇制存続」を認めることが日本が降伏する為に重要な条件と考えていましたが、日本に対する原爆の使用は決して「降伏の条件」とは考えていなかったのです。
しかし、トルーマンは草案にあった天皇の地位保全に関する部分をわざわざ削除し、そしてトールマン政権が日本が降伏する条件と考えていた「ソ連の参戦」の予定前に原爆を投下しました。
このため、ポツダム宣言から「天皇制存続」を削除したのは、日本がポツダム宣言を受諾できないようにするためで、原爆投下前に日本に降伏させたくなかったためと考えられます。

次の展示を見ていくと、原爆投下は戦争の早期終結のために行われたわけではないということが感じられると思います。

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平和記念資料館-1

このページの画像もクリックして拡大表示する事ができます。

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平和記念資料館

画像の奥に見えるのが、平和記念資料館の本館です。原爆資料館と言った方が分かる方も多いかもしれません。

以前は平和記念館と平和記念資料館が並んでいたのですが、二つが通路で繋がって、平和記念館が平和記念資料館の東館になっていて平和記念資料館が本館と呼ばれていました。

迷うことはないと思いますが、入り口は東館(画像では本館の左)にあります。

 

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入場料50円を支払って中に入ると、左がわのモニターで案内が流れています。

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最初は原爆投下前の広島の歴史について色々な展示があります。

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日清戦争以降、陸軍部隊の集結・出兵の地となり、軍の施設が拡充されていったと書いてあります。

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太平洋戦争により、市民生活は窮迫し、多くの市民が戦場や、軍事工場に動員されたとかいてあります。

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日中戦争と広島にいた第5師団のことなどが書かれています。

1937年以降は防空演習が本格的に実施され、防空壕が各家庭でも作られるようになり、

1943年には広島は防空上重要都市に指定され、建物疎開が進められたそうです。

この建物疎開の作業中に被ばくした方がとても多かったようです。
平和記念館データベースで展示物の画像が見られます。

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右は衣料切符1942年から点数内でしか衣料品の購入が認められなくなったそうです。

その隣が非常食、金属がなく陶器製の容器が使われていたのですね。

その手前が木を薄く切った物に硫黄を塗ってマッチの代わりにしていた代用マッチです。

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労働力の不足を補うために軍需工場への学徒勤労動員、民需産業の労働者が軍需産業に強制徴用され、この中には朝鮮人・中国人なども含まれていた、この人たちの一部も原爆で被災したと書いてありました。blank
戦争の進行とともに原材料も労働力も軍需生産に集中されたため、食糧や生活必需品は不足して行き切符制や配給制で一定量の確保を図ろうとし、広島市でも1940年12月からコメの配給制が実施されましたが、戦争末期には不足により配給が滞るようになるなど、食糧や生活必需品は極度に不足し、校庭を農地にしたりしたそうです。

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建物疎開1943年から官公署や軍事施設や軍需工場を空襲による被害から守るために、民家の取り壊しと、市民の立ち退きが行われ、広島市でも多くの学生・生徒や市民などが動員され、原爆により多くの被害をうけたそうです。
展示物の説明でも建物疎開の屋外作業中に被爆した方の遺品などが多くあります。
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1941年に兵器の製造に必要な金属が不足したため金属類回収令が出され、このようなポスターが作られたそうです。

次は原爆の開発と広島に投下されるまでの経緯についての資料展示になります。
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平和記念公園

原爆ドームから橋を渡ると、すぐに原爆の子の像が見えます。

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原爆の子の像

以前はこの像の下のドームに折り鶴をかけて帰ったと記憶していますが、

今はたくさんの折り鶴が収められる屋根付きのブースが設置されています。
この像は全国から折り鶴が納められることでも有名で、私も江田島に住んでいたころに折り鶴を納めに来たことがあります。
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碑文
「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」

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碑文

原爆でなくなった兄姉の霊をなぐさめ世界に平和をよびかけるために広島市小・中・高校の子供が結集し、全国の友達の支援のもとにこれをつくる

一九五八年五月五日     広島平和をきずく児童生徒の会

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こ の像は、2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが、10年後に白血病で亡くなったことをきっかけに、同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのた めに慰霊碑をつ­くろう」と呼びかけ、全国の3200余りの学校や世界9ヵ国からの寄付などにより、1958年5月5日に完成したものです。

像の高さは9メートルで、その頂上には折鶴を捧­げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。側面には少年と少女の二体の像が配されています。像の下に置かれた石碑には、「これはぼくらの叫びです、­これは私たちの祈りです、世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。内部につるされた鐘には、ノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴­」「地に空に平和」の文字が彫られています。この鐘と金色の鶴は2003年に複製されたものです。

 

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レストハウス

観光案内所と売店があります。

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雨が激しく降っていて、道路が冠水していたため、レストハウスには立ち寄りませんでした。

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平和の灯

そのむこうに平和記念資料館が写っています。

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原爆死没者慰霊碑

 

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