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平和記念資料館
画像の奥に見えるのが、平和記念資料館の本館です。原爆資料館と言った方が分かる方も多いかもしれません。
以前は平和記念館と平和記念資料館が並んでいたのですが、二つが通路で繋がって、平和記念館が平和記念資料館の東館になっていて平和記念資料館が本館と呼ばれていました。
迷うことはないと思いますが、入り口は東館(画像では本館の左)にあります。
入場料50円を支払って中に入ると、左がわのモニターで案内が流れています。
最初は原爆投下前の広島の歴史について色々な展示があります。
日清戦争以降、陸軍部隊の集結・出兵の地となり、軍の施設が拡充されていったと書いてあります。
太平洋戦争により、市民生活は窮迫し、多くの市民が戦場や、軍事工場に動員されたとかいてあります。
日中戦争と広島にいた第5師団のことなどが書かれています。
1937年以降は防空演習が本格的に実施され、防空壕が各家庭でも作られるようになり、
1943年には広島は防空上重要都市に指定され、建物疎開が進められたそうです。
この建物疎開の作業中に被ばくした方がとても多かったようです。
平和記念館データベースで展示物の画像が見られます。
右は衣料切符1942年から点数内でしか衣料品の購入が認められなくなったそうです。
その隣が非常食、金属がなく陶器製の容器が使われていたのですね。
その手前が木を薄く切った物に硫黄を塗ってマッチの代わりにしていた代用マッチです。
労働力の不足を補うために軍需工場への学徒勤労動員、民需産業の労働者が軍需産業に強制徴用され、この中には朝鮮人・中国人なども含まれていた、この人たちの一部も原爆で被災したと書いてありました。
戦争の進行とともに原材料も労働力も軍需生産に集中されたため、食糧や生活必需品は不足して行き切符制や配給制で一定量の確保を図ろうとし、広島市でも1940年12月からコメの配給制が実施されましたが、戦争末期には不足により配給が滞るようになるなど、食糧や生活必需品は極度に不足し、校庭を農地にしたりしたそうです。
建物疎開1943年から官公署や軍事施設や軍需工場を空襲による被害から守るために、民家の取り壊しと、市民の立ち退きが行われ、広島市でも多くの学生・生徒や市民などが動員され、原爆により多くの被害をうけたそうです。
展示物の説明でも建物疎開の屋外作業中に被爆した方の遺品などが多くあります。
1941年に兵器の製造に必要な金属が不足したため金属類回収令が出され、このようなポスターが作られたそうです。
次は原爆の開発と広島に投下されるまでの経緯についての資料展示になります。
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