ここまで見てくれば、原爆の開発に大金をつぎ込んだことを批判されないためにも、空襲による被害のない地域に、無警告で原爆を投下し、その効果を測定し、原爆の投下のおかげで終戦になったと言うために、原爆を落とす前に終戦にさせたくなかったのではないか、ということが言われている理由が読み取れると思います。
ここではスチムソン陸軍長官のことが展示されていますが、他にも原爆を投下せずに日本を原子爆弾を使うことなく降伏させるべきと進言がなされていたようで、日本を降伏させるのに原爆投下は不要であったという意見はあったようです。
以下は抜粋です。
米国では「原爆投下が終戦をもたらし、原爆犠牲者の数の10倍の日本人の生命も救った」という主張が主流になっているますが、日本の歴史に詳しかったグルー元駐日大使やライシャワー教授、民俗学者ベネディクト女史の進言に従って米国が対応していたら国際法違反の原爆使用は不要だったはず。
と私の意見を率直に述べ、これに米国の留学生も歴史観は百人百様と冷静に受け止め、「当時の民主党政権に判断ミスがあった」という者もいて、友好的雰囲気は卒業後も続きました。
参照自衛隊父兄会便り
グルーは陸軍長官ヘンリー・スティムソンと海軍長官ジェームズ・フォレスタルの2人とともに「三人委員会」のメンバーであった。「三人委員会」は、日本を原子爆弾を使うことなく降伏させようと建議し、それを受けて陸軍次官補ジョン・マクロイ(英語版)は日本への降伏文書を立案し、ポツダム宣言の第12条に盛り込まれることとなった。ところが、それは日本政府の「天皇制のもとでの間接統治」を許容する可能性を広く残していたため、トルーマン大統領はポツダム会談へ向かう船旅の間、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官の影響を受け、宣言内容の変更を余儀なくされた。
グルーは天皇が日本人にどれほど重要か理解していたため、原子爆弾を使うことなく日本の降伏に貢献できたと考えており、ドイツが降伏した1945年5月末から、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言していたが、結果としては広島・長崎への原爆投下を避けることができなかった。「降伏が1945年5月、またはソ連の参戦や原子爆弾使用前の6月か7月に行われたら、世界を救うことができたのだが」と述懐している。
日本大使を務めたことのあるアメリカの親日家故ライシャワー氏は「広島に落とされた一発目の原爆は必要であったとの議論も成り立つが、長崎に投下された二発目の原爆は絶対に正当化されない」と言っています。
広島原爆はウラン爆弾であったのに対し、長崎原爆はプルトニウム爆弾でした。しかも、構造も違っていました。二発目の原爆が投下された理由として、広島と長崎の原爆の種類が違うので、両方の効果を知りたいためだったとの考えがあります。
ここからは、なぜ広島に原爆が落とされるようになったのかについての資料の展示があります。
下の2つの画像のパネルには、原爆投下の目標は戦略的に価値を持つことと、研究対象として適した地域で、効果を見るために目標地域は破壊されている地域を除外されたことなどが記されています。
クリックすると拡大表示されるので、文字が読めると思います。
原爆の効果を測定する為に、米軍では原爆投下の目標となっている都市への空襲を禁止したと書かれています。
抜粋の訳文の部分には”爆弾は、日本に対して出来るだけ早く、労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無しで使用されるべきだというのが現在の委員会の見解である”と記載されています。