広島駅~宮島~呉~平和記念公園

宮島観光、お土産に人気の民芸品

宮島観光とでは、民芸品も人気のお土産です。
宮島観光で工房を散策する事で、昔ながらの職人の方たちが作った本物の良さを味わう事が出来ます。

宮島民芸

宮島観光のお土産で有名なものの一つにあるのが、しゃもじ。
実際に台所で使う実用品としてだけでは無く、家内安全の願掛けなどで購入される方も多いものです。
お米がこびり付き難く、温かいご飯を盛っても、木が曲がらないしっかりとした作り。

プロの方も多数愛用されている様です。

小さなお土産を探すなら、宮島特有の土鈴。
いつか聞いた様な素朴な音が、胸を熱くしてくれます。
鳥やツボ、神社や紅葉など、色とりどりの土鈴は一つだけでは無く、複数購入して飾っても可愛い一品です。

また最近新たに開発されているのが、宮島オリジナルのバッグや手ぬぐいなど。
新手のデザイナーによって生み出された若者にも人気のアイテムです。
水中花火大会をデザインした物、紅葉をイメージした物。
ブラックを基調とした斬新なデザインは、男性へのお土産にもお勧めです。

若い女性の方に人気なのが、手ぬぐい。
綿100パーセントの為、しっとりとした肌に優しい質感が特徴です。
一枚1200円と手ぬぐいとしては高めですが、自分へのご褒美にも是非。

呉観光次へ

広島観光のおすすめの日程例

おすすめの広島観光日程

初めて広島観光をする方におすすめの、平和記念公園と宮島の厳島神社近辺・紅葉谷、呉の大和ミュージアムと、てつのくじら館を回るコースになります。

画像をたくさん使って実際に歩いたおすすめコースを順番にご案内しています。
今回はお盆に2泊3日の旅行した例で、何度も知り合いを案内したおすすめコースのレポートをします。
2泊3日の例ですが、呉観光を半日にすれば1泊2日でも可能なコースです。

各ページ下のリンクをたどって順番に見ていただくとイメージしやすいと思いますが、気になるコースはサイドメニューからご覧下さい。
まずは3日間の観光日程の概要の確認です。

8月12日(日曜日) 初日の観光地は宮島

広島観光に向かう新幹線JR東京駅 7時00分発 新幹線のぞみ9号 グリーン車
↓(4時間4分)
JR広島駅 11時004分着

宮島へ(片道50分程度)広島駅~宮島口
JR広島駅 山陽線 1番線(岩国行き) 400円
↓26分
JR宮島口 徒歩
↓5分
宮島口桟橋 フェリー 170円
JRのフェーリーがおすすめ宮島へ向かうフェリー
↓10分
宮島桟橋

厳島神社、周辺散策、紅葉谷公園→天候等により弥山山頂まで(6時間程度)宮島観光


宮島桟橋 フェリー 170円
↓10分
宮島口桟橋 徒歩
↓5分
JR宮島口
↓26分
JR広島駅
↓徒歩3分
ホテルチェックイン 19時目安
食事(広島駅近辺でお好み焼き)

8月13日(月曜日)2日目の観光は呉、
その気になれば午後に広島市内を観光するコースに切り替えることもできます。

呉(大和ミュージアム、海上自衛隊呉資料館・てつのくじら館)
JR広島駅 呉線 3番線 広行き 480円
↓32分
呉駅 徒歩
↓5分雨の日は呉駅から歩道橋を歩くのがおすすめ

大和ミュージアム、海上自衛隊呉資料館・てつのくじら館

大和ミュージアム海上自衛隊呉資料館・てつのくじら館 大和10分の1模型 大和模型

散策、昼食

JR呉駅 呉線

JR広島駅
時間により市内散策など
夜の食事(広島市内で牡蠣がおすすめ※夏は供していないお店があります。)

8月14日(火曜日)3日目のコースは平和記念公園、広島市内観光です。
広島駅→原爆ドーム、平和記念公園、原爆資料館、市内散策→帰路

広電広島駅 2番

原爆ドーム前
原爆ドーム記念碑
原爆ドーム、平和記念公園、原爆資料館

昼食(歩いても行けるアンデルセンがおすすめ)

市内散策

広島駅
お土産購入
JR広島駅17:00発 のぞみ136号 普通車
↓(4時間13分)
東京駅21:13着

といった日程です。
それでは実際の観光コースを見ていきましょう。
広島に向かって出発です。
広島へ

宮島観光、カキ、穴子、もみじまんじゅうを味わう

宮島観光は四季折々の美しさが味わえる処です。
ゆったりとした日常を忘れたひと時を、宮島観光で味わうなかで食事は重要です。

焼きガキ宮島と言えば、美味しい食事も自慢です。
海のミルクと言われているのが、そう牡蠣。
冬には極上の旨みを味わう事が出来ます。
定番のカキフライは勿論、厳島神社に向かう参道では夏場でもそのままダイナミックに焼いた逸品「焼きガキ」を食べることができます。
広島市内では、夏場は牡蠣を扱わないお店が多いのでここは見逃してはいけません。

土手鍋など産地ならではの料理を堪能する事も出来ますよ。

また広島と言えば思いつくのが、お好み焼きですが、宮島でも食べることができます。
広島風はしっかりと中華麺を入れるのが拘り。
好みに合わせて、チーズなどのトッピングを楽しむ事が出来ます。

熱々のうちにソースとマヨネーズを付けて味わうのは、まさに極上の幸せ。
お店によって、様々な味が楽しめるので、時間がある方は梯子を楽しむ事もお勧めです。

DSC00208そして、隠れた逸品が、あなごめし。
丼に大量に載ったあなごは、宮島ならでは、今回の旅行で紹介しているのは山代屋さんですが、穴子飯を扱うお店は多くあります。宮島、宮島口で穴子めしを扱うお店を紹介しています

熱々の内に頬張ると、スタミナ満点。
旅の疲れも吹き飛ぶ美味しさです。

また宮島土産と言えば、もみじ饅頭が有りますよね。
もみじ饅頭は、広島土産としても定番ですが、宮島の紅葉谷公園の紅葉をヒントに岩惣の女将の依頼を受けた高津堂で作られたもの。
高津堂への行き方は宮島でおすすめのお土産をご覧下さい。
元祖もみじ饅頭
以前は濾し餡とつぶ餡しかありませんでしたが、今は色々なクリームが入った物も売られています。

揚げもみじ

今は揚げもみじ饅頭も広島駅でも売られるようになりましたが、宮島以外では広島駅でしか見かけませんので、ここで食べておく事をおすすめしておきます。

宮島桟橋付近にあるみ、宮島伝統産業会館のやじまん工房では、手作り体験をする事が出来ます。

所要時間1時間で、僅かに735円。
予約が必要ですやじまん工房- 宮島伝統産業会館
しっかりお土産を持って帰る事も出来ますよ。

平和記念資料館(4)

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原爆投下から約二ヶ月後の1945年10月5日広島の様子が大きなパネルで展示されています。

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原爆投下直後の広島市内の様子です。

爆心地中心の地表の温度は3千度から4千度になり、衝撃波と爆風により建物は崩壊したため、2キロ圏内の建物は全壊・全焼したと書いてあります。

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こちらが原爆投下前の市内の様子です。

 

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上が、被爆前の、下が被爆直後の現在の平和記念公園になっている地域周辺の様子です。

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こちらは原爆投下当日の写真です。

この写真に写っている方が、後にこれは私ですと名乗り出て、被爆者に対する偏見により色々と辛い目にあったと言うニュースを見た記憶があります。

 

平和記念資料館ー3

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ここまで見てくれば、原爆の開発に大金をつぎ込んだことを批判されないためにも、空襲による被害のない地域に、無警告で原爆を投下し、その効果を測定し、原爆の投下のおかげで終戦になったと言うために、原爆を落とす前に終戦にさせたくなかったのではないか、ということが言われている理由が読み取れると思います。

ここではスチムソン陸軍長官のことが展示されていますが、他にも原爆を投下せずに日本を原子爆弾を使うことなく降伏させるべきと進言がなされていたようで、日本を降伏させるのに原爆投下は不要であったという意見はあったようです。

以下は抜粋です。

米国では「原爆投下が終戦をもたらし、原爆犠牲者の数の10倍の日本人の生命も救った」という主張が主流になっているますが、日本の歴史に詳しかったグルー元駐日大使やライシャワー教授、民俗学者ベネディクト女史の進言に従って米国が対応していたら国際法違反の原爆使用は不要だったはず。

と私の意見を率直に述べ、これに米国の留学生も歴史観は百人百様と冷静に受け止め、「当時の民主党政権に判断ミスがあった」という者もいて、友好的雰囲気は卒業後も続きました。

参照自衛隊父兄会便り

グルーは陸軍長官ヘンリー・スティムソンと海軍長官ジェームズ・フォレスタルの2人とともに「三人委員会」のメンバーであった。「三人委員会」は、日本を原子爆弾を使うことなく降伏させようと建議し、それを受けて陸軍次官補ジョン・マクロイ(英語版)は日本への降伏文書を立案し、ポツダム宣言の第12条に盛り込まれることとなった。ところが、それは日本政府の「天皇制のもとでの間接統治」を許容する可能性を広く残していたため、トルーマン大統領はポツダム会談へ向かう船旅の間、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官の影響を受け、宣言内容の変更を余儀なくされた。

グルーは天皇が日本人にどれほど重要か理解していたため、原子爆弾を使うことなく日本の降伏に貢献できたと考えており、ドイツが降伏した1945年5月末から、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言していたが、結果としては広島・長崎への原爆投下を避けることができなかった。「降伏が1945年5月、またはソ連の参戦や原子爆弾使用前の6月か7月に行われたら、世界を救うことができたのだが」と述懐している。

参照ジョセフ・グルー – Wikipedia

日本大使を務めたことのあるアメリカの親日家故ライシャワー氏は「広島に落とされた一発目の原爆は必要であったとの議論も成り立つが、長崎に投下された二発目の原爆は絶対に正当化されない」と言っています。

広島原爆はウラン爆弾であったのに対し、長崎原爆はプルトニウム爆弾でした。しかも、構造も違っていました。二発目の原爆が投下された理由として、広島と長崎の原爆の種類が違うので、両方の効果を知りたいためだったとの考えがあります。

参照長崎大学原爆後障害医療研究施設

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ここからは、なぜ広島に原爆が落とされるようになったのかについての資料の展示があります。

下の2つの画像のパネルには、原爆投下の目標は戦略的に価値を持つことと、研究対象として適した地域で、効果を見るために目標地域は破壊されている地域を除外されたことなどが記されています。

クリックすると拡大表示されるので、文字が読めると思います。

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原爆の効果を測定する為に、米軍では原爆投下の目標となっている都市への空襲を禁止したと書かれています。

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抜粋の訳文の部分には”爆弾は、日本に対して出来るだけ早く、労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無しで使用されるべきだというのが現在の委員会の見解である”と記載されています。

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平和記念公資料館ー2

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続いて、原爆の開発と広島に投下されるまでの経緯の資料の展示になります。

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広島に原爆が投下された8時15分に壊れた時計です。

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時計の後ろにある写真と文章は、ここに展示してある腕時計のものではありません。

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1943年5月にアメリカが原爆投下の対象に日本を想定し、1944年の9月アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が日本への原爆投下に合意し、原爆の投下により戦争を終結できれば、1945年8月中旬に予定されていた、ソ連の対日参戦による戦後ソ連の影響力をの拡大を防ぎ、原爆開発計画を国内に向け正当化できるために日本への原爆投下に至ったという説明があり、それぞれに関する資料が展示されています。
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1938年にドイツで原子の核分裂が発見されてからアメリカを中心とするマンハッタン計画(原爆製造計画)による原爆の開発、1945年の初の原爆実験について説明があります。
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軍人と科学者で構成された軍事政策委員会で、1943年に原爆投下地点について議論され、日本艦隊が望ましいだろうという意見が大半をしめた理由は、原爆が爆発せずに回収された場合、爆弾から開発の知識を得る可能性がドイツよりも日本の方が低いだろうと見られたためだという内容が記載されています。

2013年5月17日(金)10時13分配信 共同通信
 【ワシントン共同】米上院エネルギー天然資源委員会は16日、第2次大戦中に原爆を開発した「マンハッタン計画」の関連施設を国立歴史公園に指定する法案を賛成多数で可決した。同様の法案は下院の委員会でも既に可決しており、成立には両院の本会議での可決を残すのみとなった。法案は広島、長崎に投下された原爆の製造過程に深く関わった施設を「歴史資源の保存」を目的に国立公園に指定する内容。オバマ政権も賛同している。

1944年にセオドア・ルーズベルトとウィンストン・チャーチルが会談した時の合意文書にも、日本人に対して使用するかもしれないという文章があるそうです。

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1945年6月6日のアメリカ陸軍長官の日記の抜粋の日本語訳には。
原爆の準備が整わないうちに、空軍が日本を徹底的に爆撃してしまい、その結果、新兵器の威力を確認できる都合のよい状況がなくなるのではないかと多少心配している。
と記載されていました。

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ヤルタ会談でソ連が中立条約を破り対日参戦する時期が決まったこと、20億ドルの経費をかけたマンハッタン計画(原爆製造計画)が失敗に終われば厳しい調査と批判を受けなければならないことなどから、原爆により戦争終結につなげれば、アメリカは戦後の国際社会でソ連より優位に立つことができ、マンハッタン計画を国内に正当化できるため、原爆投下に向け準備を進めたという内容の展示があります。

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ポツダム宣言について、当時の新聞です。
政府は黙殺という文字が見えます。

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無条件降伏を求めるポツダム宣言には、原爆の存在を暗示する言葉もなく、日本がそれを受諾して降伏するために重要と考えられていた天皇制の存続の保証が記されていないものであったことと、日本は受諾しなかったという内容の説明があります。

余談ですが、ポツダム宣言は草案では「天皇制の維持」を保証する文章がありましたが、トールマン(ルーズベルトの急死によりトールマンが大統領になりました。)とバーンズにより削除されました。後ほど展示物でも出てきますが、スチムソン陸軍長官は再三、トルーマンに天皇制の存続保証する事が日本がポツダム宣言を受諾する為には重要だと進言していました。
トルーマン政権は「ソ連の対日戦争参戦」と「天皇制存続」を認めることが日本が降伏する為に重要な条件と考えていましたが、日本に対する原爆の使用は決して「降伏の条件」とは考えていなかったのです。
しかし、トルーマンは草案にあった天皇の地位保全に関する部分をわざわざ削除し、そしてトールマン政権が日本が降伏する条件と考えていた「ソ連の参戦」の予定前に原爆を投下しました。
このため、ポツダム宣言から「天皇制存続」を削除したのは、日本がポツダム宣言を受諾できないようにするためで、原爆投下前に日本に降伏させたくなかったためと考えられます。

次の展示を見ていくと、原爆投下は戦争の早期終結のために行われたわけではないということが感じられると思います。

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平和記念資料館-1

このページの画像もクリックして拡大表示する事ができます。

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平和記念資料館

画像の奥に見えるのが、平和記念資料館の本館です。原爆資料館と言った方が分かる方も多いかもしれません。

以前は平和記念館と平和記念資料館が並んでいたのですが、二つが通路で繋がって、平和記念館が平和記念資料館の東館になっていて平和記念資料館が本館と呼ばれていました。

迷うことはないと思いますが、入り口は東館(画像では本館の左)にあります。

 

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入場料50円を支払って中に入ると、左がわのモニターで案内が流れています。

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最初は原爆投下前の広島の歴史について色々な展示があります。

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日清戦争以降、陸軍部隊の集結・出兵の地となり、軍の施設が拡充されていったと書いてあります。

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太平洋戦争により、市民生活は窮迫し、多くの市民が戦場や、軍事工場に動員されたとかいてあります。

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日中戦争と広島にいた第5師団のことなどが書かれています。

1937年以降は防空演習が本格的に実施され、防空壕が各家庭でも作られるようになり、

1943年には広島は防空上重要都市に指定され、建物疎開が進められたそうです。

この建物疎開の作業中に被ばくした方がとても多かったようです。
平和記念館データベースで展示物の画像が見られます。

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右は衣料切符1942年から点数内でしか衣料品の購入が認められなくなったそうです。

その隣が非常食、金属がなく陶器製の容器が使われていたのですね。

その手前が木を薄く切った物に硫黄を塗ってマッチの代わりにしていた代用マッチです。

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労働力の不足を補うために軍需工場への学徒勤労動員、民需産業の労働者が軍需産業に強制徴用され、この中には朝鮮人・中国人なども含まれていた、この人たちの一部も原爆で被災したと書いてありました。blank
戦争の進行とともに原材料も労働力も軍需生産に集中されたため、食糧や生活必需品は不足して行き切符制や配給制で一定量の確保を図ろうとし、広島市でも1940年12月からコメの配給制が実施されましたが、戦争末期には不足により配給が滞るようになるなど、食糧や生活必需品は極度に不足し、校庭を農地にしたりしたそうです。

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建物疎開1943年から官公署や軍事施設や軍需工場を空襲による被害から守るために、民家の取り壊しと、市民の立ち退きが行われ、広島市でも多くの学生・生徒や市民などが動員され、原爆により多くの被害をうけたそうです。
展示物の説明でも建物疎開の屋外作業中に被爆した方の遺品などが多くあります。
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1941年に兵器の製造に必要な金属が不足したため金属類回収令が出され、このようなポスターが作られたそうです。

次は原爆の開発と広島に投下されるまでの経緯についての資料展示になります。
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平和記念公園-原爆の子の像

原爆ドームから橋を渡ると、すぐに原爆の子の像が見えます。

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原爆の子の像

以前はこの像の下のドームに折り鶴をかけて帰ったと記憶していますが、

今はたくさんの折り鶴が収められる屋根付きのブースが設置されています。
この像は全国から折り鶴が納められることでも有名で、私も江田島に住んでいたころに折り鶴を納めに来たことがあります。
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碑文
「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」

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碑文

原爆でなくなった兄姉の霊をなぐさめ世界に平和をよびかけるために広島市小・中・高校の子供が結集し、全国の友達の支援のもとにこれをつくる

一九五八年五月五日     広島平和をきずく児童生徒の会

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こ の像は、2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが、10年後に白血病で亡くなったことをきっかけに、同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのた めに慰霊碑をつ­くろう」と呼びかけ、全国の3200余りの学校や世界9ヵ国からの寄付などにより、1958年5月5日に完成したものです。

像の高さは9メートルで、その頂上には折鶴を捧­げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。側面には少年と少女の二体の像が配されています。像の下に置かれた石碑には、「これはぼくらの叫びです、これは私たちの祈りです、世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。内部につるされた鐘には、ノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」「地に空に平和」の文字が彫られています。この鐘と金色の鶴は2003年に複製されたものです。

 

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レストハウス

観光案内所と売店があります。

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雨が激しく降っていて、道路が冠水していたため、レストハウスには立ち寄りませんでした。

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平和の灯

平和の灯の向うに平和の池、原爆死没者慰霊碑があり、そのむこうに平和記念資料館が写っていますが、
原爆ドーム、平和の灯、原爆死没者慰霊碑、平和記念資料館は一直線に並んでいて、この平和の灯は原爆ドームと原爆死没者慰霊碑の中間に位置しています。

この、平和の灯は全国の宗教団体から寄せられた宗教の火(宮島の弥山の「消えずの霊火」もあるそうです。)と、全国の工業地帯から届けられた「産業の火」を合わせたものだそうで、1964(昭和39)年8月1日に原爆が投下された日に広島に産まれた7人の女性により点火されて以来、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴して燃え続けていて、台座は手のひらを空に広げた形を表現しているそうです。

国内外に分火されているほか、色々なイベントで使われている平和の灯ですが、市役所に許可申請すれば分けてもらえるそうです。

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原爆死没者慰霊碑

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平和記念公園

原爆ドームから橋を渡ると、すぐに原爆の子の像が見えます。

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原爆の子の像

以前はこの像の下のドームに折り鶴をかけて帰ったと記憶していますが、

今はたくさんの折り鶴が収められる屋根付きのブースが設置されています。
この像は全国から折り鶴が納められることでも有名で、私も江田島に住んでいたころに折り鶴を納めに来たことがあります。
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碑文
「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」

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碑文

原爆でなくなった兄姉の霊をなぐさめ世界に平和をよびかけるために広島市小・中・高校の子供が結集し、全国の友達の支援のもとにこれをつくる

一九五八年五月五日     広島平和をきずく児童生徒の会

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こ の像は、2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが、10年後に白血病で亡くなったことをきっかけに、同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのた めに慰霊碑をつ­くろう」と呼びかけ、全国の3200余りの学校や世界9ヵ国からの寄付などにより、1958年5月5日に完成したものです。

像の高さは9メートルで、その頂上には折鶴を捧­げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。側面には少年と少女の二体の像が配されています。像の下に置かれた石碑には、「これはぼくらの叫びです、­これは私たちの祈りです、世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。内部につるされた鐘には、ノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴­」「地に空に平和」の文字が彫られています。この鐘と金色の鶴は2003年に複製されたものです。

 

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レストハウス

観光案内所と売店があります。

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雨が激しく降っていて、道路が冠水していたため、レストハウスには立ち寄りませんでした。

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平和の灯

そのむこうに平和記念資料館が写っています。

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原爆死没者慰霊碑

 

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広島駅から平和記念公園(原爆ドームと爆心地)

今日は平和都市広島を象徴する平和記念公園をまわります。

広島駅から広電2番か6番に乗り(約20分)原爆ドーム前で下車し、徒歩で平和記念公園 内の広島平和記念資料館を周り、広島を代表するベーカリーのアンデルセンで昼食にというコースです。

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朝7時の朝食からスタートです。
広島駅から原爆ドームへ広電で
まずは広島駅に向かい路面電車2番に乗ります。

原爆ドーム前で降りると、進行方向の左側に原爆ドームが見えます。

近くの横断歩道を渡って直接原爆ドームに向かっても良いのですが、公園入口は電車の後ろ側の横断歩道を渡った所にあります。
今回は公園入口から爆心地を経由してから原爆ドームに向かうコースの紹介になります。
何度も足を運んだ平和公園ですが、以前は「原爆は原爆ドームの真上で爆発した」と聞いていて正確には爆心地は少し違うという事を知らなかったので、今回初めて爆心地に足を運びました。

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公園入口です。

正面に原爆ドームが見えています。

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公園の入口にある案内版です。

電車を降りてまっすぐに原爆ドームに向かうと見ないで通り過ぎてしまいます。

原爆投下の前の周辺の様子の説明や地図と、原爆投下直後の写真がのっています。

公園入口の案内板にあった昔の地図を見ると、爆心地はすぐ近くだったので行ってみました。

爆心地です。

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原爆ドーム前で電車を降りて、公園入口を通り過ぎて信号を渡り、一つ目の角を右に曲がって十字路を2つ過ぎたところに、爆心地の案内があります。

当時、ここの辺りにいた人は瞬時に命を失い、見渡す限り廃墟となった場所ですが現在も原爆投下時も島病院があります。

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爆心地へ寄らずにに向かう場合は原爆ドーム前で下車すると進行方向の左側に原爆ドームが見えますので近くの横断歩道を渡ってそのまま向かいます。

近くに行くと案内板があります。

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こちらの案内板は原爆ドームは広島県産業奨励館だったこと、

この上空600(爆心地の島病院の案内では580mメートル上空と書かれています)で原爆が爆発し、20万人が犠牲になったことや、この半径2キロが廃墟になったこと、この事実を後世に伝えるために永久に保存するといった内容が記されています。

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こちらには、平成8年に世界遺産になったことが記されています。

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ドームの鉄骨などは防錆塗装してあり、内部は鉄骨で補強するなどの保存工事がされています。

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2位回目以降の(撮影の段階では2回目と3回目)保存工事について書かれています。

※2015年4月に完成から100年を迎えた原爆ドームですが、初めての耐震工事を実施することが決まったそうです。被爆70年に合わせて秋以降、壁の内側を鋼材で支えて補強する工法で行われるそうですので、たいてい工事期間中は足場が組まれたり、メッシュ状のシートなどでおおわれるなどすると思いますので多少見えにくくなるかもしれません。

1回目の工事については2つ下の画像の案内板の説明に書いてあります。

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原爆ドームの説明です。

画像を2回クリックするとなんとか文字が読めるかもしれません。

 

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この付近にもたくさんの石碑等がありますが、全部見て回る時間はないので、近くの橋を渡り、公園の中心を目指します。

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橋の上から撮影、画像をクリックすると元安川の右に原爆ドームが映っているのがわかります。

道路が冠水するほどの強雨の中ですが、多くの方が訪れているのがわかります。
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